レジェンド・アントニオ猪木さん死去 最後まで強さを見せる
元プロレスラーで国会議員としても活動したアントニオ猪木さんが1日朝、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。
2020年に自身のSNSで、難病の「心アミロイドーシス」と闘病を続けていることを公表していた。
自身のYouTube番組では、2022年9月21日に撮影された映像として、ありのままの姿が公開された。
ベッドで横になり、体を起こすことができない猪木さんが、視聴者に向けて語った。
なぜYouTubeを再開したかについて、「別にやりたくないよ。欲も何もないんだから」と返答。
「見せたくないでしょう、こんなザマを」と言いつつも、ありのまま“弱い俺”を見せながらも、闘魂を燃やしていた。
これからやりたいこととして、「世界の環境問題。今手近でやれること、それは世界のゴミを消していくこと。『どうだー!』と大きな声を出せる時がもうすぐそこに来ている」とほほ笑んでいた。
さらに、「もうそろそろ猪木さん楽をしてくださいと言う人が誰もいないんだよ」とうれしそう。
「まだまだ猪木さんに先頭を走ってほしい」と希望されると、「この声が敵なの。でも、敵がいる限りいいじゃない」と弱さの中に強さを見せつけてくれた。

すでに生前葬が行われていた
通夜、告別式は未定だが、74歳だった2017年に生前葬を開いていた。
『生前葬』という名のプロレス・格闘技興行で、満員7000人が集った。
リング上に白い棺おけが置かれる中、弟子の藤波辰爾、藤原喜明が参列し、藤原組長が「般若心経」を読経。テンカウントゴングが鳴った。
猪木さんは「千の風になって」を熱唱しながら入場。
世界平和を願う「1、2、3ダァー」を2回繰り返して締めくくられた。
これが猪木さんが主催する最後のプロレス興行となる。
今年8月28日には、「24時間テレビ45 愛は地球を救う」に車いすで登場し、復活を誓った矢先だった。

「燃える闘魂」生涯プロレスラーの人生
「燃える闘魂」のキャッチフレーズ通り、最期まで“プロレスラー”であり続けた生涯だった。
プロレス界、格闘技界への功績は語るまでもない。
横浜市出身で、中学生のときにブラジルに移住。その後プロレスラーの力道山にスカウトされて日本に帰国し、17歳でプロレス界に入った。
同時に入門したジャイアント馬場さんとタッグを組んで注目を集め、1972年には「新日本プロレス」を立ち上げ、プロレス界をけん引してきた。
そして、モハメド・アリとの異種格闘技戦をするなど、その闘う姿は私たちを魅了してきた。
現在活躍するプロレスラーや格闘家にも、大きな影響を与えている。「アントニオ猪木こそがプロレス」と訴えるファンも多い。
テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』は、視聴率20%を超えていた。
「アントニオ猪木」は「数字が取れる」存在で、プロレスラーの枠を超え、様々なテレビ業界で影響を与えてきたのだ。

プロレスを通して人質を「全員解放」へ
1989年、猪木さんは「スポーツ平和党」を立ち上げ国会議員になった。
そしてすぐ翌年に、イラクのフセイン政権によるクウェート侵攻が起こり、日本人が人質になった。
猪木議員は飛行機をチャーターしてイラクに乗り込み、「平和の祭典」としてプロレス興行を開いた。
「無謀な行為」など、批判も多かったが、この後イラクと交渉し、人質を「全員解放」へ導いたのだ。
誰もが知るアントニオ猪木さん。
「1・2・3、ダー!」のかけ声は、現役時代を知らない若い世代も知っている国民的フレーズだ。
また「闘魂注入」と呼ぶ、頬への“ビンタ”も、猪木さんの代名詞である。
猪木さんが残した多くの伝説は、プロレス史だけでなく様々な分野でも語り継がれるだろう。
