全国初の“飛び入学”合格者は、現在トレーラー運転手として働いていた
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千葉大学が初の「飛び入学」を実施
1998年に千葉大学が全国で初めて「飛び入学制度」を導入した。
海外であればそれほど珍しくない、いわゆる“飛び級”制度。
高校を3年間通って卒業しなくても、一定の受験が揃えば大学に入ることができる。
日本では義務教育を9年受けて、高校受験。そして合格後3 年かけて勉強し、大学を受験するといった流れが一般的だ。
しかし千葉大学が「科学技術の最先端を切り開く人材を育てたい」という思いから、全国で初めての試みを開始。
入学資格は「高校に2年以上在籍。その中でも特に優れた資格をもつ17歳以上の生徒」である。

昔はスポーツ少年だった
当時高校2年生だった「佐藤和俊さん」は、担任の先生から千葉大学が飛び入学制度を取り入れたことを聞いて、チャレンジすることを決めたそう。
佐藤さんは中学生のとき、野球部に所属しており毎日練習に明け暮れていたそうだ。
それがある日の科学の授業で「今見えている星は、もう存在していない可能性がある」という話を聞いて、衝撃を受けた。
「光に速さがあるなんて!」と驚き、そこから辞典でわからないことを調べる日々が続き勉強にのめりこんだ。
今の学力では大学は厳しいと諦めかけていたけど…
佐藤さんは、さらに科学について勉強するため大学への進学を検討。しかし進学へは問題があった。
科学を理解するため数学の勉強にも励んでいたため、科学と数学には自信があった。
しかし国語や社会は赤点をとることもしばしばあり、決して得意とは言えない状況だったのだ。
大学受験はすべての科目が一定基準を満たさないと合格できない。
そのため今の自分には厳しいかもしれない…と受験を諦め就職も考えていたそう。
そんな時に物理のスペシャリストを求める「飛び入学」の話を聞き、チャレンジしたのだ。

合格者はたった3人
同じ高校から飛び入学にチャレンジしたのは3人。佐藤さんは飛び入学合格はもちろんだが「日本の受験制度に風穴をあけたい」という思いがあったそう。
そして全国発の飛び入学試験が実施され、初の合格者3人のうちの1人に佐藤さんが選ばれたのだ。
入学後に合格した3人は“特別待遇”をうけることに。3人専用の自習室が設けられたり、担当の大学院生がついて指導や相談にも乗ったりしてくれたそう。
当時は初めての試みであったこともあり、メディアの取材が殺到していたようだ。

大学院を経て研究施設へ就職
佐藤さんは「思う存分勉強ができてただ嬉しかった」と当時の心境を語っていた。
そのまま大学院に進み、光の伝わり方を制御できる「フォトニック結晶」を研究テーマにした論文で修士号も取得。
そして大学院をでると、宮城県にある研究施設に就職した。
このまま働きながら好きな科学をずっと勉強できると意気込んでいたそう。
手取り15万の現実に…
しかし現実は想像と違っていた。初任給を受け取った佐藤さんは「手取り15万」の金額に驚いた。
佐藤さんは就職する前の年に子どもが生まれており、これから子育てにお金がかかる。
そして大学時代の奨励金やアパート代に生活費、そして研究室まで通うための車の維持費も必要だった。
しかし手取り15万ではギリギリの生活になり、食費もかなり削っていたという。
おかずは1品、知人から野菜を分けてもらったり、カップラーメンで済ませたりした日もあったそうだ。
仕事はやりがいもあり、大学で学んだことも活かせていた。
しかし現実問題お金が無く生活もやっとの状態、いい転職先を見つけても面接に向かう新幹線が工面できず、断念していたため転職もできなかったという。

32歳の転機
32歳のとき佐藤さんは思い切った決断をする。
これまで続けていた研究の仕事が契約更新できずに切れたのだ。
そこで佐藤さんは「世の中にはプロを目指してもなれない人もいる」と考え、研究者への道に見切りをつけた。
学生時代に車が好きだったこともあり大型免許をもっていたため、そのスキルや経験を活かして運送会社に就職。
周りから惜しまれる声もあったが、佐藤さんは「未練はない。でも物理が好きなことにかわりはない」といっていたそうだ。
この決断に奥さんは「好きなことをやってくれればいい」と、見守る様子が伺えた。
8年経った今は?
運送会社に務めて現在で8年目の佐藤さん。
一軒家も購入し、週末には家族4人で外食したりと今の生活を楽しんでいるという。
研究の道に未練はないが、物理はすきだからたまに知人の子どもに勉強を教えているそうだ。
取材人の「もし研究の仕事があれば続けていたか?」という問いに佐藤さんは「たぶん続けていたと思う。でも考えても仕方がないことだし、今は目の前の仕事をしっかりこなしたい」と答えている。

